民族戦線 平成5年2月1日(第56号)より
本文は湊川神社の特別許可を頂き、同神社発行の「大楠公」より転載させて頂いたものです。



太平記と大楠公

保 田 興 重 郎
(やすだ よじゅうろう)


 「太平記」に現はれる大楠公の記事は、数ケ所にすぎない。それでゐて、「太平記」全篇の構成が、大楠公の壮挙を讃へることを目的としたかと思へるほどに、公に関する叙述は、精彩を放ち、且つ千鈞の重みを示してゐるのである。一面から云へば、大楠公の人格と事業と精神が、古今に比類ないものであったからであらうが、その記述がすべてこの偉人の眼目をおさへたことは、「大平記」の作者が、その時代相の中で、唯一最高の光として、大楠公に真に敬服し傾倒してゐたゆゑであらうと思はれる。
 「太平記」の史料としての内容については、明治以来かなり疑問をもたれたこともあるが、その細部の検討の末に、この書が時に驚くべきほど、正確な事実を伝へてゐることが、漸次明らかになってきた。戦乱の時代であるから、各地各方面の情報にしばしば不備欠点のあることは止むを得ない。叙述に誇張のあることも、今日の新聞紙の場合と比較して見ても、必ずしも非難すべきほどのものではない。いづれにしても、この物語の伝記々者は南北朝時代を眼近に知ってゐた人であった。
 しかし、こゝで私が特に云っておきたいことは、「太平記」の文学としての優秀さについてである。文学作品としてこの書の特長は、夥しい多種の、しかもみな一かどの人物を、未曽有の乱世の危機感の中において、その多種を多彩に描き出した文学的な造型能力である。それは私が知る限りの、東西古今の文学と比較し、最も感嘆に耐へない点であった。こゝに古今といふことは、近代十九世紀欧州の長篇小説もふくめての話である。しかも「太平記」の作者は極めて簡潔な叙述によって、それを申し分なく現はしてゐるのである。極度に単純な、そして直戴な筆法が、一層にその効果をつよく現はしたものと考へられる。人物を描き、事件を叙するに当って、この作者はきはめて直戴簡潔の筆致により、ことの真相と人の実体を、一種の絶対感を以て描き出したのである。
 今日では「太平記」を通読するといふやうな人は少くなった。従ってかうした点について、我々の先祖のもった文学的才能を回顧する人も少いと思ふ。しかしこれからまじめに文学を学ぼうとする志のある若い人々は、かういふ形の文学の表現力を、我々の祖先の能力として必ず知っておくべきであらう。
 乱世の危機感の中で、多種類の、しかも各々独自の性格が、果してどういふ行動をしたか、そこにある必然性と、それを押し越す冷厳な運命といったものを通じて、無数の人間の形を淡々と描き出したのが「太平記」の文学作品としての比類ない特色である。
 それらの人々も、もし世が乱世でなければ、尋常の人生のしきたりのまゝに、生れついた運命に順応して生き死した人々であった筈である。さういふ尋常に生涯を終へた筈の人々が、乱世の中で、危機の自覚によって、その人の生れつきの個性の一部分が極端な様相に変貌される、さういふ無常や地獄相を示す事実を、一人の人の例としてでなくこの物語は無数の人間の型に造型したのである。さまざまの人間によって時代相を描き出したのである。時代によって生れた多くの人間、時代のゆゑに変貌した人間の型を次々に描きつゝ、かつてなかった乱世の時代相を文学の上に造型したのである。その卓抜の技法は現在の文壇では思ひもよらない、わが古人の民族的文学能力の優秀さを示すものの一つである。
 さういふ「太平記」の作者が、大楠公を描いて、これを全篇を通じて、最も卓越した至高の人物として現はしてゐるのである。これ以上に大楠公を讃へるために我々が何かを語る必要はない。
 「太平記」の作者が、大楠公その人について誌した文章は、字数にして何百字か千字たらずほどであり、大楠公のことばとしてあげたものも、笠置山の行在所での奉答の弁、桜井駅の子別れの教戒、湊川討死の時の正季公への一諾などであった。他に大楠公の人と精神についての作者の批評がニケ所ほどに出てゐる。これをも合せて、字数にして僅々千字余りと思はれる。それだけの文字によって、「太平記」の作者は、この空前絶後の大人物を完壁無比に描いてゐるのである。勿論描かれた人が大楠公であったからであらう。しかし私はこゝでまづ「太平記」の作者の文学の才能を讃仰したい。「太平記」の作者は、大楠公を絶対的に札賛し、唯一最高の人として批評してゐるのである。
 「太平記」をはなれて大楠公について申しておきたいことは、大楠公といふ人は、あの激しい精神をもち、あの激しい戦ひによって、唯一人の道をうちたてられながら、その実は温厚中庸なものの考へ方をされた人であったといふことである。これは大楠公が同時代の中で、時代の動きを大きく正しく把握されてゐたといふ意味にもなる。さういふ正しく歴史を把握する力を、大きい和かな形でもたれた人ゆゑ、その大理想をたゞ一人して行ふ大信念をも、もたれたのであらう。
 大楠公の信念の根拠となったものは、よりどころない宗教的信仰ではない。昔からこの大人物を、おのが教団の飾としようとした人々は、大楠公の宗教信仰が、その信念の根拠となったかのやうに説いてきたが、大楠公の信念は、歴史的把握力ともいふべき知性に立脚し、その上で国民草莽の固有観念に生きたものである。この間のことは、大楠公の事蹟を通覧すれば分明なところである。
 大楠公のものの考へ方は、さういふ意味の知性にもとづくのであるが、その知性の根拠は、京城近畿の近くに生れた人々が、必ずうけついできた伝統とその教養に原因をもつのである。伝統といふものは、云ひかへれば土着の教育である。日常坐臥に、その身につくやうにしくまれたしつけの教育であり、それが所謂修身といふものであった。その修身はかりそめの時の、瞬間の判断が、正しいか、美しいか、潔いかを反省することから始るのである。その反省をまたずに、さきに躾として、その肉体につけさせようとしたものが修身であった。
 「太平記」には、大楠公の人がらが、温和な考へ方をもち、教養と知性の高い人であったとあからさまには描いてゐない。しかし「太平記」がしるしてゐる、次々の国家の大事件の中の大楠公の、一期の大事に当っての行動は、決して我意を貫く人でなく、我意を抑へて衆の和を尊ばれた人であったことを申分なく現はしてゐる。それは公の不義不正と戦ふ精神と決して矛盾しないのである。
 しかし一面この大楠公の穏健な考へ方は、後醍醐天皇の叡慮を絶対とした態度の現れとも思はれる。このことは、私見としても簡単には云へないし、それを例証する事例をこゝであげることも、簡単な記述としてはさしひかへたいと思ふ。さういふ事件を何らの説明と考証を加へずにあげることは、多くの人の誤解をひくおそれがあると思はれるからである。
 大楠公の温和な考へ方が、叡慮絶対の思想から出てゐたことは、また公の人格の真価を高める一因である。時代を乱世と危機から解放し、すべての人々をその乱世相から救ひ出す方法として、かうした考へ方をせられたといふことは、全く正しいことである。この知性に立った方法が公の信念となり、勇気の因となったと考へられる。
 大楠公のこの信念は、神と神話の世界観によって、人間の生き方と理想を貫く以外にこの大乱世より人が救はれるすべはないとされたもののやうに考へられるのである。その花々しい勇気にみちた壮挙と最後によって、肉身と生命を献げてこの理を示されたからである。この大楠公の考へ方と信念は、公の少年時代何某僧に教はった宗教信仰に立脚するといふ如き、つくられた伝説によって手軽に解釈し了へるべきものの類ではない。これこそ、根源的な民族の土俗であり、民族の血の現れである。この民族の自然感情が公の土地的な伝統教養と融和して、その絶対的信仰を増大し、その大理想の内的な支柱を形成したのであらう。


 大楠公が笠置山の行在所に参上する動機を、「太平記」に、天皇の御夢によったとしてゐるのは、勿論小説のことであるが、大楠公出現を叙すに全くふさはしい記述である。大楠公ほどに稀代の人物は、さういふ稀代の条件で出現することだけがふさはしいやうな存在だったからである。当時の大楠公は、すでに紀和河泉一帯に亘って、その勢力を振ひ、建武中興推進の中心人物であらせられた大塔宮とも、十分な連絡をもたれてゐたと推定される。
 この時公に対し「そもそも天下草創の事、如何なる謀(はかりごと)を廻してか、勝つ事を一事に決して、太平を四海に致さるべき、所存を残さず申すべし」との勅諚があった。これに奉答した大楠公のことばは「東夷近日の大逆、唯天の譴を招き候上は、衰乱の弊(つひえ)に乗って、天誅を致されんに何の子細か候ふべき。但し天下草創の功は、武略と智謀と二つに候。若し勢を合せて戦はゞ、六十余州の兵を集めて武蔵相模の両国に対すとも勝つことを得難し。若し謀を以て争はゞ、東夷の武力唯利を摧き堅を破る内を出でず、是欺くに易くして怖るゝに足らざる所なり。合戦の習にて候へぼ、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜらるべからず、正成一人未だ生きてありと聞召され候はゞ、聖運遂に開かるべしと思召され候へ」と「頼もしげに申して、正成は河内に帰りにけり」と「太平記」は誌してゐる。
 大楠公はこの戦の大義名分をまづ言上し、草創の一戦に勝つ事を決すなどといふ方略については何も云はず、「合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜらるべからず」といふ、不敗の大自信と大信念を吐露したのであるが、さらにそれにつづけて驚くべきことばを申上げてゐる。
 叡慮に対し皇師必勝と奉答することは、とりもなほさず大義名分であるが、ここで言上した大楠公のことば、実に驚嘆すべきものであった。わが光栄ある史上にも、唯一のもので、勿論比すべきものさへない。
 「正成一人未だ生きてありと聞召され候はゞ聖運遂に開かるべしと思召され候へ」といふことばは、壮烈といふよりも、むしろ悲痛である。悲劇の極致を自ら形成するものである。けだしそれは、皇師即正成といふ思想、さらに云へば正成即皇師といふ思想に発する不敗の信念であるが、「正成一人」と申上げてゐるところが、沈痛骨を削る思ひをさせるのである。
 時に現実に於て、まさしく「正成一人」だったのであるから、沈痛の情深いのも当然であった。孤城に義旗をかゝげられた時、天下みな敵であった。大楠公がつひに唯一人だった期間は久しくつゞいたのである。大楠公はその戦ひを即座に決意し、しかもその信念を素直に言上したのである。大楠公はその瞬間に絶対に死なないといふ存在即道義の思想を信念としてもたれたのであらう。それは無常に対立する永遠の思想である。この永生の信はすでに死するに等しい。この生死一如の大信念は、半可通の禅や、仏の説教空言の中にあるわけでない。大楠公のこの時の信念は不言の実践であり、不立文字の実体を示された。しかも大楠公は、この奉答の弁を、実現されたのである。誰にも不可能と見える種類の、理念の実現を敢行されたのである。この人はまことに神であった。
 国史軍記の伝へる三千年のわが歴史に於て、義士烈士雲の如くに現はれてゐるけれど、この瞬間に於ける大楠公ほどに壮烈鬼神をあざむくといふ形容そのまゝに、神そのものであった人士は見出し得ない。しかも大楠公は終始、この弁のまゝに実践せられたのである。これほどの勇気ある士、しかもその勇気を堂々と吐き得た大勇猛の士は、三千年国史に、雲の如くあらはれた英雄豪傑の中に一人として比肩するものを見ない。けだし大楠公の思想は、勇を超えた道義であり、理念だったのである。この大楠公が神として祭られることは当然である。
 この皇師即正成といふ考へ方は、その実践に於てなり立ち、又それは絶対を背負ふものであった。絶対道徳を実践する意味である。そして大楠公は己が合戦の生涯によってさういふ皇師が道徳であることを、身を以て行ひ、人にも世にも教へられたのである。それゆゑわが史上空前絶後のこの一言は、さういふ道徳であるものの信念的発露であった。これが「正成一人未だ生きてありと聞召さば」といふ、神ながらのことばが、人の口からおのづからにほとばしり出た所以であった。由来私は、この一句をよむ時、身内に戦慄を味ふのを常とし、時に当っての大楠公の心懐を追想し、わが心裡に悲涙の溢れるのを意識したことである。
 こゝに於て大楠公は、直ちに赤坂城に義旗をあげらる。されど笠置山早くも陥落し、赤坂も月余にして落城天下悉く賊軍となり、越えて元弘二年春三月には天皇隠岐島行在所に遷幸せらる。然るにこの年十一月、大楠公は千早城を築き、こゝに国中唯一の義軍の旗が再びうちたてられた。やがて赤坂城を回復し、大塔宮の吉野城もこれに呼応される。北条高時がこの情勢に備へて天下の大軍を召集したのは、この年十二月であった。あけて元弘三年一月晦、関東の大軍は吉野、赤城、千早を攻撃する。赤坂は忽ち落城し吉野も月余にして陥落する。これより賊軍大挙して千早の孤城を包囲したのである。
 この千早城合戦を記述した「太平記」は、大楠公のこの時の境涯と心情に思ひをいたしつゝ、次のやうにしるしてゐる。「千剣破(ちはや)城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂城の勢、吉野の勢馳せ加はって、百万騎に余りければ城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲んで、尺寸も余さず充満(みちみち)たり。旌旗の風に翻って靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布けるが如くなり。大軍の近づく処には山勢是が為に動き、鬨の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐れずして、わずかに千人に足らぬ小勢にて、誰を馮(たの)み何をか待つともなしに、城中にこらへて防ぎ戦ひける楠が心の程こそ不敵なれ」
 この孤城に僅少の精兵を擁して、挙国の大軍をひきうけた大楠公の戦ひは、まことに尋常の常識で考へられるものでない。近世数百年間を通じ、楠流兵法と称して、大楠公にかこつけた兵学が、神秘性を以て秘伝視され畏怖されたのは、大楠公のこの戦ひが誰が見ても常識を超えて神秘に近いものだったからであらう。大楠公はこの弧城に満天下と敵兵を迎へ、これを支へること半歳、つひに回天の業を成就されたのである。
 ここに「太平記」の作者が「楠が心の程こそ不敵なれ」と証した状態こそ、実にわが歴史に於て唯一絶対の場面であった。唯一人として身を以って行った例ない一瞬であった。そして「太平記」作者の嘆息したこの一句は、わが千五百年の文学史を通じての壮大な絶句である。
 たゞ一人のめぐまれた詩人が、千歳一遇の日にしるしとゞめた文章である。生涯をかけた文人の生甲斐として二つなきもの、わが千五百年の文学史中の最高の絶句と、私は感動に耐へがたいものを味ふ。まことに大楠公の「心の程」はまさに史上を通じて、恐らく古今東西に亘って、「大平記」の作者の驚愕にふさはしいほどの「不敵」のものであった。


 建武中興が挫折した経過はこゝに論ずるところでない。一度西海に没落した足利尊氏が、忽ち九州を従へ大軍を催して東上するとの報に、朝廷の軍議は大楠公の建策を用ひず、賊軍を兵庫にむかへうつことに決定された。この時白旗城攻撃中の新田義貞公はすでに兵を兵庫にひき、こゝに配陣を終ってゐたのである。
 大楠公はこの戦略に何の成算もないことを知ったが、義貞公を救ひ、これを京都へかへすことに、自己の戦ひの使命を考へられたのである。湊川に於ける大楠公の戦ひは、自軍を犠牲として義貞公の退却を擁護するための、全滅の体勢をとられたものであった。このことは出陣の時、さらに早く朝議一決の時に決意されたところと知られる。
 大楠公の参内建策は延元元年(建武三年)五月二十日、京都進発はその後にて、桜井の駅での正行公との訣別は五月二十三日と云はれ、兵庫着は二十四日、この夜義貞公と軍議を練り、死戦を期してゐる義貞公に後退再起を強く説かれた。
 大楠公この時すでに四十三歳、旧時野戦の大将の実状に於ては、すでに老頽の時期に入ってゐる。元弘挙兵の時の三十八歳にしてすら、当時の武将の年齢としては、老齢だったのである。同じ時足利高氏二十六歳、すでに天下の武士の過半が、彼に心を寄せる状態にあった。当時の高氏(後の尊氏)と一党の所領石高は、北条氏一統の所領の三分の一に及び、高氏を覇者とする人望に於ては、北条に匹敵するに近い同心者をもってゐたのである。
 「太平記」はこの湊川出陣を叙して「正成是を最後の合戦と思ひければ、嫡子正行が今年十一歳にて伴したりけるを思ふ様ありとて、桜井の宿より河内へ返し遣すとて庭訓を残しけるは、獅子 子を産んで三日を経る時、数十丈の石壁より是を擲ぐ。其子獅士の幾分あれば、教へざるに中より跳返りて、死すことを得ずといへり。況や汝己に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見んこと是を限りと思ふなり。正成已に死すと聞きなば、天下は必ず将軍の代に成りぬと心得べし。然りといへども、一旦の身命を助らんために、多年の忠烈を失ひて、降人に出づる事あるべからず。一族若党の一人も死残ってあらん程は、金剛山の辺に引籠って、敵寄来らば、命を養由が矢さきに懸けて、義を紀信が忠に比すべし。是ぞ汝が第一の孝行ならんずると、泣々申し含めて各東西に別れにけり」
 古来志ある人々が、特にこの章をよんで涕涙にむせんだといふことは、その人々の志の程、思ひの深さのあらはれに他ならない。大義に志をもち、心に思ひあるものは泣くのである。
 大楠公はこゝでも世に類ない激しいことばをのべておられる。「正成已に死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得ベし」、これは笠置山の奉答中の「正成一人未だ生きてありと聞召さば」と対比するほどの激しい感動をふくめた言辞であって、そのあとにつゞく致誡は、従って絶対のもの、たゞ一途のものである。そして正行公は、その一途絶対の道を、遺訓のまゝふみ行はれたのであった。
  子わかれの松のしずくに袖ぬれて
  昔をしのぶさくらゐの里
 明治天皇の御製に拝するのであるが、畏き天皇も涙し給うたのである。それこそ、最も高次な志節を思ふ人の涙をそゝって止まない情態である。最も純粋な立場で道を思ひ、生命を以て理想を守らんとする、壮烈といふよりも悲劇の崇高美を描き出した人生図である。かういふ場合に於ける人間のあり方や、その神々しさは、如何なる時代にも失はれるものではない。
 かの南北争闘の乱世、多くの人はたゞ利権にはしり、昨日の友はけふ敵となる、叛服常ならなかった時代の中で、楠氏一族の清純さ、西の菊池一族の尽忠と相対し、無明の時代を光被した事実は、「太平記」作者が己の思ひをこめてしるし残したところである。「太平記」が菊池氏の忠厚を推重するために、他ならぬ大楠公の口を通じて、中興第一の功臣と評させてゐるのは、作者の志を展くに当って、心憎いばかりの配慮のあらはれである。まことに楠氏菊池氏の純忠こそ、「太平記」作者の信じたごとく、今日に至って、千古の壮観である。
 その時代に幽かだった一燈は、けふに至って、時代全体の上に輝く炬火の如くのぞまれる。「太平記」にしるされた大楠公の、僅々千字からなる三つの言葉が「太平記」数百千万語の全篇をおほふ炬火となってゐると云ふことは、今日より南北朝時代を見た時の楠氏の光輝を以てした思ひ過しでない。すでに「太平記」作者の志に於て、大楠公の存在が、時代の上に輝く炬火と認められ、そのあり方に、己の志のほども示さうとしたといふことは、その記述に於てあきらかに証されるところである。
 こゝに於て「太平記」作者の、一片耿々の志は、後世の今日より見て、成就したものと云ふべきであらう。大楠公の心裡の状が、時代をへた今日に於て、その時代全体をおほふ炬火と見えるのみでなく、すでに「太平記」作者の心に於て、その乱世諸相の上に輝く道義の唯一の大炬火だったのである。
 「太平記」作者はその全篇の中で、救はれざる極悪人の一人をも描かなかった。生死を超えてみな人の性の善を救ってゐるのである。足利兄弟に対しても、高師直に対してさへ、憎悪の情をむけてゐない。むしろ彼らを人間性の善良さと弱さに於て描き、敵味方の供養をして、世の太平の回復を祈ったのである。しかし大楠公の場合は、人に於ける神性の畏さ、神性の高さ、神性の美しさを描き、人間の崇高の悲劇美を象徴的にまで表現した。「太平記」全篇を読めば、大楠公が、正に神であることが瞭然とする。こゝに「太平記」作者の描かんとした志があった。
 大楠公教誡の情景を誌した中にも、「泣々申含めて各東西に別れにけり」とあって大楠公は涙をかくされなかったのである。さもあらうと思ふ。さうでなければならないとも思ふ。わが国の神話で、最もたけき神にましました素戔鳴尊は、青山を泣き枯らすほどに涙を流されたのである。この日大楠公も亦その涙をかくされなかったのである。近世の武家時代から近代に移ると、武人はかうした直戴な行動をなし得ず、文人も亦さういう直戴の記述をなし得なくなったのである。


 延元元年五月廿四日、兵庫に着いた大楠公は義貞公と軍議をこらし、この地での玉砕を期してゐる義貞公にその京都帰還を説得し、そのため自軍は犠牲的な配陣につかれる。翌廿五日が所謂湊川合戦である。
 大楠公の最後として「太平記」に誌された叙述は、「正成座上に居つゝ舎弟正季に向って、そもそも最後の一念に依って善悪の生を引くといへり、九界の間になにか御辺の願あると問ひければ、正季からからと打笑ひて、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を減さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども我も斯様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて、此本懐に遷せんと契って、兄弟共に刺違へて、同じ枕に伏しにけり」とある。
 「罪業ふかき悪念云々」といふのは、当時の仏教思想にもとづく考へ方である。
 「太平記」の作者も、仏教観念の鼓吹を、この物語執筆の趣旨としたのだが、大楠公の品格をのべ行動と結末を語るに当っては、さういふ観念のものを全く棄て、超越してゐるのである。そのことは、「太平記」湊川合戦の章の末尾に、大楠公を評した讃辞をよむとき、さらに明らかなところである。それはまた仏教最盛時代に於けるわが国人の、民族感情の実体を示すに足る一つの事例であるが、さらに「太平記」の作者その人は、仏教観念宣布を念じて物語を草した人であっただけに、この教学よりの超越ぶりには一層興味深いものがある。
 こゝに正季公がからから打笑ひ、七生尽忠の志を誓はれたのに対し、大楠公が「よに嬉しげなる気色にて」これを諾ったといふ書きぶりは、まことにこの物語の作者の志のたけ高さを示すに十分なものであった。これこそすなほな民族感情の表現である。
 正季公がからからと打笑ったといふことは、当時の一般教養界を風靡した仏教信仰からくる穢土厭離の思想を、その笑ひで吹きとばされたのである。こゝで大楠公が、「よに嬉しげなる気色にて云々」とつゞくところ、まことに天晴れな描写で、よほどの志高い作者が、よく心にとどめた現場の記憶と思はれる。桜井駅で泣く泣く教訓した大楠公とこゝで嬉しげにうち笑はれる大楠公の対蹠は、この畏きまでに偉大な人を、完壁に描いたものといふべきである。この物語の作者は、極度にまできりつめた短い簡潔の描写の中で、一期の重大なものは、何一つ見落さなかったのである。
 こゝにすべてが終った。「太平記」作者はこの章の終りに、大楠公に対する評語を加へてゐる。それは全篇を通じての人物論中、作者最高の讃辞であり、公に対する最も適切な追悼の文と思はれる。仏教々理を綺語狂言を通じて語り、世の太平の回復を祈願とした筈の作者が、大楠公を評するに当っては、さういふイデオロギーを無造作に超越し民族の純粋感動に立ちもどって、それより一歩もふみ出せなかったのである。それが同時代に近い人の講評であるだけに、ことに尊く思はれる。
 「太平記」のその記事は「そもゝ元弘より以来悉くも此君(後醍醐天皇)に憑まれ進らせて、忠を至し功を誇る者幾千万ぞや。然れども此乱(尊氏謀叛)又出来て後、仁を知らぬ者は、朝恩を捨て、敵に属し、勇なき者は、苟くも死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は、時の変を弁ぜずして、道に達ふ事のみありしに、智勇仁の三徳を兼ねて死を善導に守るは、古より今日に至るまで、正成ほどの者は未だなかりつるに、兄弟自害しけるこそ聖主再び国を失って、逆臣横に威を振ふべき前表の験(しるし)なれ」。大楠公に対する論賛はこの一句につきるやうに思はれる。